隕石の鑑定室

Helio☾entric Astrology

ジオの土星とヘリオの土星

土星はあなたの輪郭を作る


従来の占星術(ジオセントリック)では、土星は「凶星」というニュアンスが強く漂うと思います。

「太陽の死に場所」などと表現されることもあるくらいで、太陽=自分の力を削ぎ、自らの生きるパワーを抑え込む存在であり、越えられない限界や試練を示します。

また、組織のようにきっちりとした仕組みがあるもの、構造的であること、自己管理することなども含んでいます。
角張ったイメージ、四角四面なイメージです。
どれも、ここからここまでと線を引くような感覚です。それによって、整理され秩序がもたらされます。

 


ヘリオセントリックでは、吉か凶かという概念はなく、魂の計画を浮かび上がらせることが目的ですから、単純にネガティブな意味付けをするわけではありません。とは言え、制限や限界という意味合いそのものは共通しています。

ヘリオの土星は、エネルギーの輪郭を作るものと捉えると、わかりやすいかもしれません。

どこまでも拡大・成長していく、制限を持たない魂のエネルギーに逆方向に作用し、この方向はここまで、と区切りをつけます。そうやって輪郭線を描き出すことによって、魂のエネルギーが一つの形となってくっきりと浮かび上がります。

たくさん拡大する部分、そうでない部分、それはまさに千差万別で、それによって魂の形は唯一無二のものとなります。土星の逆噴射エネルギーは、そのような意味でとても大切なものなのです。

車にアクセルだけあって、ブレーキがなければ大変なことになります。土星はブレーキだと考えると、その大切さがよく分かると思います。

ひた走る情熱にブレーキをかけられたら、イラッとするかもしれません。しかしそれによって大事故を防ぐことができます。車の運転の上手下手はブレーキの踏み方にかかっていると聞きますが、人生も同じことが言えるのではないでしょうか。

人生の最終形

 

ヘリオには、ジオにはないであろう概念が1つあります。

それは、土星が人生の最終的な到達地点を示すということです。人生の一番外側の枠ということです。ここまで行ったら完成!という最終的な図面と言えるでしょう。

水星が、魂のままに生きるはじめの方向性を選び取り、地球がその方向の先に、自分の生きる目的を築き上げます。そしてさらにその先に、どこへ行き着くか、どのような完成形となって締めくくるのかを、土星が暗示しているのです。

 

土星はジオではあくまで、「克服しなければならないポイント」「嫌でも取り組まなければならない苦手な宿題」でした。とても重苦しく、つらい部分です。

ヘリオでは、必ずしもそうではないのです。何も克服しなくてもいいんです。その体験を生きるだけで十分すぎるほどなのです。

ヘリオには、体験の質に優劣をつけたり、幸か不幸かを点数をつけて評価したりする概念がありません。ネガティブかポジティブかという判断も意味を持ちません。

土星に強いハードアスペクトがあったとしても、心配する必要は全くありません!

ブレーキを踏むことによって生まれる体験を、魂ははじめから欲しがっているということであり、それはあなたの個性の一部であり、あなたという輪郭を形作るものだからです。それなしにはあなたの形が成り立たないのです。

 

サビアンシンボルの解釈が変わる

 

特に土星のサビアンシンボルは、魂の完成形、人生の締めくくり方をわかりやすく暗示していることが多いですから、ぜひそういう見方でも注目してみてください。

例として、私自身の土星のサビアンシンボルを見てみます。

私の土星は、ジオもヘリオも全く同じ度数にあります。双子座18度、サビアンシンボルは『中国語を話す二人の中国人』というものです。狭いコミュニティに閉じこもり、閉鎖的な様子を示します。

だいぶ前に、ジオの鑑定をしてもらったことがあるのですが、その際も、他の要素と組み合わせた読みではありますが、〈他人との関係に壁を作らず、傷ついたとしても、もっと関係を開いていくことで人生が豊かになる〉というような見方をされていました。

たしかにジオの土星は「苦手な課題」ですから、今の私ではダメなんだ、もっと社交的になり、人と関係を積極的に持つようにしなければいけないんだ、と私も解釈していました。それが乗り越えなければいけない壁だと思っていたのです。

 

ヘリオでは、これが「人生の最終形」として捉えることができるのです。同じサビアンシンボルが、全く別の肯定的な意味で見えてきました。

大勢に認められなくても、自分にとって本当に大切な、小さな人間関係の中で幸せを探せるならばそれでいい。というより、むしろそれが私が一番活きる在り方なのだと、捉えることができます。その限界の中でこそ、私は守られるのです。

自分に足りないものをなんとかして得なければ、成長しなければ、完全になれない──という欠けたものへの視線が、自分を全面的に肯定し、そのままで良しとする視線に置き換わりました。

これはとても単純で、些細な変化のように見えるかもしれません。

けれど私自身の体感としては、全く新しく生まれ直したような、すべての表裏をひっくり返したような、ドラマティックな変化として感じられました。目から鱗が落ち、重い肩の荷を一気におろしたような、深い安堵感を覚えました。

 

私事を書き連ねてしまいましたが、これをヘリオの一つの例として、噛み砕いてわかりやすく伝えることができたなら、嬉しく思います。