最高の自分を生きるために
ヘリオセントリックは、魂のブループリントに沿った生き方をしている、最高バージョンの自分へと誘います。
そのような生き方へとシフトしていくには、理詰めに損得を計算したり、不安から最悪の事態に備えるといったあり方から、より自由に、よりシンプルに、自分の感覚に正直になっていく必要があると思います。
魂からのメッセージを、直感として受信していくことが、その近道です。
ヘリオセントリックの鑑定においても、星からのメッセージを今のご自分に当てはめ、解釈するためには、直感的な受け取り方がとても重要になります。
あまり考えすぎず、はじめに何となくピンと感じた印象を、より大切にしてください。
そうすることで、眠っていた本当のパワーが自然と目覚めていくのだと感じています。
それは特殊能力?
「チャネリング」と言うと、どんな印象を持たれるでしょうか。
どこか特殊能力を持った人だけが、神や天使などと交信するもの、普通の人間にはできないものと考える方も多いのではないでしょうか。
また、どこか胡散臭く、嘘くさいものと感じる方もいらっしゃるかもしれません。
私もそう思っていたので、たぶん多くの方もそうではないかと思います。
でも、考えてみると、ふとシャワーを浴びているときに何かを思いつくとか、無心で歩いているときに何かが降りてきたとか、虫の知らせを感じたとか、なんとなくそんな気がしたら当たっていたとか、そんなことは結構よくあることではありませんか?
別に怪しいことでも何でもなく、誰もが無意識のうちにやっていることなのではないかと思うのです。
それらは全部、自らの「魂」からのお知らせを受け取っているのではないでしょうか。
魂からの「ニュース速報」みたいなものかもしれません。そう思うとちょっと笑えますが、それも、一種のチャネリングといえるのでは?と今では感じるようになりました。
なんとなくビジョンで見えやすい人、概念がふっとやってくる人、音で聞こえる感じの人、いろいろその人の得意な部分で、その知らせはやって来やすいのだろうと思います。
私は、面と向かって人と話すときは、言葉のキャッチボールを不備なく執り行うことにばかり必死になり、全く不器用な限りなのですが、文章を書こうとしたときには、これは本当に自分で書いているのか?と思うくらいにスラスラと言葉が淀みなく降りてくる感覚が、時々あります。
概念の塊が降りてきて、それに合う言葉をじっと待つとそれも降りてくる、という感覚に近いです。
ヘリオセントリックの鑑定をするときも、なんとなくチャートから全体像が見えてくる感じがありますし、鑑定文を書いているときの言葉選びもそうなのです。
それも、一種のチャネリングと呼べるのではないか…と感じるようになりました。
本当にできているか自信がない!
とは言っても、チャネリングなんて学んだことなどないし、完全に自己流でしかないので、自信は全くありません。
時折、迷いのあること、答えを知りたいことに関して、自分の中に問いかけることを繰り返しているうちに、なんとなく、ぼんやりと烟った状態ではありましたが、私は答えを受け取れているのかもしれないということにも、ある時気づきました。
それでも、その答えが本当に高次の意識から来たものか、長い間自信を持つことができませんでした。自分のエゴが囁いているだけかもしれないという疑いを払拭できません。
それこそ、その疑問をチャネリングで問いかけてみればいい。そう思って、自分の内側に尋ねてみようと思いました。
私はきちんとチャネリングできているのでしょうか?
それともこれは私の思考が妄想しているだけの偽物ですか?
『私にはできない、と信じるなら、信じたとおりになるでしょう。
私にはそのパワーがあるから。』
内側から湧いて出てきた答えは、その一言でした。
できないと疑うことは、できないと「信じる」こと。だからできないという現実が生まれるのだ。
一気に全てが腑に落ちた気がしました。
信じることには究極のパワーがある。それは何度も見聞きしてきた言葉でしたが、どこか絵空事のままで、自分の中に落とし込めていなかったと知りました。
そのパワーを否定的に使うか、迷うために使うか、それとも肯定的に使うか。全ては自分の選択だった…
それだけのことを受け入れ、納得して、素直になるのにも、ずいぶんと長い時間をかけてしまいました。
その回り道も、道草も、決して意味のないことではなかった。絶対に私の道に必要なものだった。それも、そう信じるならそうなるのだ……ということも、少しずつ螺旋を昇るように、わかってきました。
得意なことは、与えられたこと
私はほとんどの場合、概念の塊のようなものがふっと落ちてきて、それを言語に翻訳し、文章として書き付けることをしています。多分、誰かを目の前にして声として伝えるのでは上手く行かないだろうと思います。
私はしゃべることより書くことが得意で、大きく人生に挫折した後も、自作の文芸サイトに散文やエッセイのようなもの等を書いたりしていました。
それは今読み返しても、私自身のエッセンスの凝縮された結晶のような輝きを持ち、自ら愛おしく思えるものです。と同時に、どこか自分で書いたものではないような、何かエネルギーが降りてきて書かされたような感覚も、一角で確かに感じていたのです。
自分の「エゴ」で書いたもの、認められたいとか高く評価されたいと思って書いたものは、決して輝きは放ちません。
どこか、言葉の神様と交流するような神聖な気持ちで書いたものでなければ、自分なりに価値を感じるものは書けませんでした。
その頃はそんな言葉自体知らなかったけれど、それはまさにチャネリングをしていたということなのかもしれません。
得意なものは人それぞれ、他の誰でもない自分だけの、パワーの使い方があります。人それぞれの方法があり、それはどれも正しく、素晴らしいものです。
あなたにもあなただけのやり方が、かならずあるでしょう。
それこそが、宇宙に与えられたギフトと言えるのではないでしょうか。
私と同じように自信を持てないでいた方も、ぜひ、ご自分の本当のバワー、その可能性を疑うことなく、心に留めていただきたいと願います。