子は親を選べない?
「親ガチャ」という言葉を昨今よく耳にします。
どの親のもとに生まれるかは運次第なので、当たり外れがあり、ハズレくじを引いたら人生踏んだり蹴ったりだというわけですね。当たりくじを引いた場合、ろくに苦労せずとも未来は開けていて、全く不平等だ!ということになります。
親の存在によって心底苦労させられているという人はたくさんいて、それによって人生を左右されてしまうと考えるのも無理はありません。
私自身も、親との関係にとても苦労してきた一人です。
人生において親の存在というのは、考えている以上に強い影響を及ぼしているものなのではないでしょうか。
生まれてきたばかりのときには、環境要因のすべてが親の在り方・考え方にかかっています。赤ちゃんはそこに依存し、守ってもらうことでしか生き延びることができませんから、赤ちゃんにとって親は全能の神のような存在と言えます。
それを思えば、「どんな親の元に生まれるか」ということは、人生の基本的な土台の部分をすっかり変えてしまう絶大な力を持っていると言えます。
このように、地球から空を見上げる視点の場合、どんな親であるかということは完全に一方的に与えられるものであり、自分には関与できず、完全な運任せということになるのかもしれません。
全ては自分のシナリオ通り
しかし、ヘリオの視点では異なってきます。
魂は太陽系にやってきて、中心である太陽から地球へと降りてくるという考え方をしますから、視線は太陽から地球を見下ろしているという、全く逆の方向を持ちます。
これはどういうことでしょうか?
運は天から降ってくるものではなく、自分とともに降りてくるものだということです。
自分がどんな親のもとに生まれ、どんな苦労をするかということは、ぶっちゃけて言えば既に決まっていて、それを決めてきたのは他ならぬ自分自身だということになるんです。
以前にも何度か書いたと思いますが、ヘリオのチャートには魂の計画の大まかな部分、概略が現れています。
魂は、ブュッフェでお食事をするときのように、何を食べるかを自分で選びます。あらゆる美味しそうなメニューが並んでいますが、一度の人生で体験できることは限られていますから、これとこれを食べようと決めて、お皿に乗せます。
選んだもの以外は重要度が低く、あまり深く体験することはありません。しかし選んできたものについては、どんなに逃げようとしても逃げられない人生の課題となります。
その課題をもっとも効率よく、印象深く体験するために、魂は環境を整えます。自分の体験したいことを体験させてくれるような環境を自分で選ぶわけです。
私たちは自分で親を選んでいる
誰しも、何らかのチャレンジを抱えて生まれてくるのだろうと思います。
それは、ズバリ言ってしまえば「なんのチャレンジもない人生は面白くない!」からです。簡単なゲームは面白くないからです。ハードルはちょっと上げないと、それを乗り越える喜びもやり甲斐もなく、退屈してしまいます。
恵まれた親のもとに生まれるのと、そうでないのと、どちらがハードルが高く難しいゲームであるのか、他にも様々な要因が絡み合うので端的には言えません。
ここまで読んでくださったら、困難な環境に生まれることが運が悪く、恵まれていたら運が良いと、一概に言えるものではないということをはっきりと感じ取っていただけたのではないかと思います。
どんなにひどい「毒親」だったとしても、それは自分で選んだ親なのです。
いじわるで外罰的な神様が、気まぐれに運命のダイスを転がしているわけでは決してない、ということです。
比較することはナンセンス
それぞれの勇者は、それぞれの人生をクエストしていくわけです。その舞台や条件は、人によってまったく千差万別で、一つとして同じものはありません。
一般的に見たら経済的に豊かで、何不自由ない生活をさせてくれる親のもとに生まれても、十分な愛を与えられず、心が飢えている人もいます。貧しくて大変な苦労を強いられても、存分に愛されて育つ人もいます。
どちらがより恵まれているか、どちらがより過酷な人生か、それを比較することは全くできないですよね。
不幸自慢をして、どちらがより苦しいかを競い合うことは全くナンセンスと言えます。反対に幸福のアピール合戦をすることも同じです。
インスタグラムなどで他人のキラキラした日常を見ては心がすさむ、というのもありがちだと思いますが、これも全く意味がありません。元々の基準点が全く違うのですから。
レディ、ゴー!で一斉にスタートする競争といったものは、ヘリオの世界観には存在しません。比較のための、共通の基準点というもの自体がないからです。
現代の社会を完全なる競争社会だと捉え、少しでも人より多く努力して、少しでも人より優れた存在になろうと考えて、身をすり減らしてきた人は多いと思います。
それをナンセンスと切り捨てられてしまうのは、身を切られるように辛く感じるかもしれません。ですが、それがヘリオセントリックの指し示す真実なのです。
同じスタートラインに立ち、一斉にスタートして競い合うという図を念頭に置いている限り、本来の魂の求める生き方で生きることは難しいと思われます。
親ガチャとか、勝ち組負け組などという考え方自体、このような平面的な競争のなかに身を置いてこそ成り立つものです。そこから一歩離れてみると、全く違う世界が展開されていたことが見えてくるでしょう。
その平面的な競争が二次元だとしたら、ヘリオの世界観は三次元と言えるかもしれません。より立体的で、どのような方向性もあり得る、完全に自由な空間です。
受け容れられなくても、そのままでいい
自分に与えられたもの、今の自分が既に持っているものに感謝しましょう──とよく言われますが、今この現実の中でそんな事どうやったらできるんだよ!と半ばキレていた人もいるのではないでしょうか。私自身もまさにそんな風だったんです。
しかし、ヘリオの考え方に触れると、今の自分の環境や在り方、持っているものなど、すべてが自分にとって過不足なく必要なものであり、それ以上であっても以下であっても駄目な、絶妙なさじ加減であったということがわかってきました。
与えられているものは、本当は自分で自分に与えたものだ、ということが腑に落ちてくるのです。
自分より先に進んでいるように見える人に、劣等感を感じる必要はありません。また、自分より遅れているように見える人は、それなりの理由があって、あえて遅れていることを選んでいるのですから、比較して優越感に浸るようなことがあってはいけないということがよくわかります。
スタート地点もバラバラ、進む方向もバラバラの人たちに、同じ定規を押し当てて競争させているということがいかにおかしなことかが、見えてくるのではないでしょうか。
親や、置かれた環境などに、今の時点で素直に感謝ができないのであれば、それが今のあなたのベストなのだと思います。それを否定することは全くありません。
感謝できる人と比べて、自分は心が汚いとか劣っているとか考える必要も全然ないのです。それは、感謝できる心を育てるのにより難しい環境を選んできたからで、あなたが悪いわけでも劣っているわけでもないからです。
むしろ、とても難しい設定を選んで人生を生きることを決めてこの星にやって来たあなたは、とても素晴らしい勇者だということです。
人より劣っているように見える部分、それはあえて選んできたハンデのようなものだと思って構わないのだと、それを誇りに思って良いのだと、私は思います。
私も、未だに人と比較して自分を惨めに思ってしまったりすることがあります。
このような直線的な比較の思考はとても深く刷り込まれていますから、なかなか抜け出せないことも仕方ないのでしょう。でも、以前よりはるかに生きやすくなり、自分を責めることも減っていると感じます。
比較するということも悪いことなのではありません。それによってもたらされる苦しみもまた、本来の自由へと戻っていくための一つのプロセスと言えるからです。
光を知るためには闇を知る必要がある、というのと同じです。
より多くの方が、ヘリオセントリックの世界観に触れることで、自らを比較思考の檻から出してあげられるようになり、今そこに在るそのままの自分をごく自然に肯定できるようになったらいいな…… そう願っています。