なぜそれを願うのか
「願いは必ず叶う…」と、良くスピリチュアル系で言われています。
引き寄せの法則とかもそうですね。それを願って、自分に許可し、常にポジティブないい気分でいることで欲しい事柄を引き寄せることができるといいます。
それを否定するつもりは毛頭ありません。
しかし、ヘリオセントリックの世界観を通じて考えると、また違った側面が見えてくるのです。
それは「どんな願いも願えば叶う」ということじゃなく、そもそも叶う願いだからそれを願うようにできているのだということです。
全く見当違いなことは、初めから願うこともありませんよね。例えば、子供の頃から身体が強い方ではなく運動も不得手だった私が、スポーツ選手になってオリンピックに出たいなどという夢をはじめから持つはずがありません。
あらかじめ、能力や興味の向かう方向というのはある程度決まっているという感触があると思います。それはその人の個性やキャラクターというものですが、なぜそのような個性を持って生まれてきたか?と言うことです。
それが叶うのかどうか?ということ以前に、なぜ私はそれを願っているのだろうか?ということを改めて考えてみると、全く違う角度で光が当たって、異なる側面が見えてくるのではないでしょうか。
あなたが置かれた環境や、出会う人、経験など様々なものが重なって、自然と手を引かれるように、あなたはそれを願うようになったのではないでしょうか。または、生まれ持った性質や能力など、自分の意思で選んだのではない部分で、何を願うかはほとんど変わってきてしまうものではないでしょうか。
それらは、私やあなたが「自分の思考」を通して選んだものではありません。
一見すると外側から与えられたもの、自分の好みで選ぶことができなかったもの、ということになります。私がスポーツ選手の素質を持って生まれたかったと、いまになって思ったとしても、それは無理というものです。私にはそれを選べませんし、選ぶ必要もないのです。
与えられたものこそが、あなたのものであり、魂の導きだと言えるのではないでしょうか。
あなたがそれを願っているということは、既にそれが叶っている未来を持っているからだ、ということです。引き寄せを頑張って実践してもしなくても、多分どちらでもそれは叶う方向に流れることでしょう。私の主観的な考えですが、そう思います。
この法則を実践するメリットは、自分なんか駄目だ…と自ら可能性を放棄したくなってしまう場合ではないでしょうか。気持ちが下振れしやすいときに、薬を飲むようにこの法則に頼るのはアリかもしれません。
しかし、それよりもっと大事なことがある気がするのです。
自分の思考の部分で、こうなりたい、ああだったらいいなという夢想を抱くのではなく、いま手にしていることに人生における「宝」が凝縮されているということを心の底から理解したときには、もう何も望む必要などなく、全ては与えられていて、それをひとつずつ手に取って味わっていくだけだ…そういう人生が開けてきます。
集団催眠から覚醒める
面倒くさいのは、これとは全く異なるケースもあることです。与えられたと思っていることが、宇宙から与えられたものか、世間の固定概念に与えられたものか、区別がついていないことがよくあるのではないでしょうか。
望みというのは、置かれた環境と同時に、周囲の価値観に多分に左右されるものです。それはほとんど無意識に自分の中に染み付いていて、自分でも気が付かないくらいです。
自分ではこれが私の望みで間違いないと思っていても、それがどれだけ周囲の影響を受けて形作られたものかは誰にもわかりません。自分で気づかなければ誰も教えてはくれません。
周囲に導かれたのではなく、周囲に押し付けられ、本来の自分らしさを歪められている可能性があるということになります。
もしかすると、ヘリオセントリックで描かれている内容が、自分の望んでいることとは合致しない、むしろかけ離れていると感じることもあるかもしれません。
その場合、自分の望みがどこからやってきたのか、一度深く考えてみる必要がありそうです。
ヘリオは魂の計画を暗示しますから、そこから離れているということは、魂が与えた望みではない可能性があります。社会常識に刷り込まれた思い込みによる願いかもしれません。
それは集団催眠のようなものです。その中にいると、催眠にかかっていることさえ気づけません。
そこから醒めていくには、今いる場所とは全く違う視座で世界を眺める眼差しが必要です。まさにヘリオチャートからの情報はそれに値するものです。半ば強制的に、違う角度でのものの見方をあなたの内側にぶっ込んできます!
ある領域では覚醒していても、別の領域ではまだ催眠にかかっている、という場合も往々にしてあると思います。私自身もそうかも知れません。まだまだ醒めていかなければいけない部分があるのかもしれないな、と思います。
その事に気づいているかいないかは、きっとたいへん大きな違いです。それが、私自身本当にヘリオに出会えてよかったと思える一つの要因となっています。
必要なものは与えられている
もう何も望む必要などなく、全ては与えられていて、それをひとつずつ手に取って味わっていくだけだ… このような在り方が、もっとも理想的な在り方なのではないかと私には思えます。
何かを欲しがる気持ちがなく、いまに満ち足りていて、豊かさが外側にまで溢れこぼれている……そのような生き方をするには、宇宙が、自分が求める前から必要なすべてを与えてくれる、という絶対的な確信が必要となるでしょう。
魂の計画は、大いなる宇宙=神とダイレクトに繋がっています。魂に導かれるままに、その設計図を生きるとするなら、すべてのお膳立てはもう済んでいて、ただ紐解かれるのを待っているだけということになります。
それを深く知った時、必要なすべては与えられていて、欲しがる前からすでに手にしているのだということに、確信が生まれるのではないかと思います。
欲しがったから手に入れることができたのではなく、そうなることが分かっていたからそれを欲したのです。
そう気づくことは、宇宙と同調すること、もっと言うと、創造主・神のエネルギーそのものと同化しようとすることなのではないでしょうか。
それが多分、すべての魂の最終的な目標です。