「ありのまま」へ感じてきた違和感
ありのままの姿見せるのよ〜♪ という歌でもあまりにも有名な「ありのまま」というフレーズは、とても耳触りの良い言葉で、あらゆるシーンで昨今よく使われていると思います。
この言葉、聞こえがとても良いだけに、イメージ先行になっているような気がしてなりません。
辞書を引けば「実際にあるとおり。偽りのない姿。ありてい」とあります。
飾らない、本来のままというような意味なのは誰もがわかることですが、私はこの言葉が必要以上に独り歩きしてしまっている気がして、ずっと気持ちが悪かったのです。
特にスピリチュアル界隈では、この言葉が本当によく使われ、決め台詞みたいになっている気がします。でも、スピリチュアル文脈において、どうも2つの意味に分裂してしまっている気がするのです。
今までにまとってきた汚れを脱ぎ捨てた、ピュアな美しい自分、みたいな文脈で使われることがよくあります。
それはよくわかるのですが、それでは、まだ現世の社会に汚された間違った信念や習慣を捨てきれない状態であるとき、それはありのままの自分じゃないことになります。
今現在の、掛け値なしの自分が「ありのまま」ではないことになってしまいます。
「魂のままに」生きるという意味で、「ありのままの自分として」生きるというふうに使う人がいます。それでは、完全に本来の魂のままに生きられていないとき、今の自分はありのままではない、ということなのでしょうか?
今現在の情けないままの自分を認めるという意味でなら、ありのままの自分を受け入れましょうという表現は理解できます。
しかし、本来のポジティブな魂の在り方を顕現した素晴らしい私になりましょう、という意味で、ありのままの自分に還っていきましょうと言われることもあります。
あれ?ありのままの自分に「還る」ことってそもそもできるの? 還るということは、今ここの自分はありのままではないということになります。
「今ここ」というのもスピリチュアル頻出ワードですね。今ここに在りましょうと言いながら、ありのままの私に還りましょうと言うのです。どっちなの!?となりませんか?
これが長年ずっとモヤモヤとし続けた、私の「ありのまま」という言葉に対する違和感の正体でした。
まるごと愛するということ
ヘリオセントリックのチャートを見ていると、土星に緊張感のある強いアスペクトがある方などは特にそうなのですが、ものごとがすんなりと運ばず、壁にぶち当たってそれと格闘するというような計画を持って生まれてくることがあるのがよくわかります。
(私自身がまさにそうでした。私の地球と土星は重なり合っているんです。)
それは、いつも書いているように、難しいゲームのルールを設定してくる、というようなものです。
それは必要のない回り道ではなく、無駄な徒労なのでもなく、そこから感じ取り、経験したいことがあるからこそあえてそうしているのだと思います。
そのような計画を持っている場合、一見すると正しい道から逸れて、迷路のようなものに迷い込んでしまったように感じられることがあります。
その真っ只中にいる場合、「魂本来の美しく正しくポジティブな在り方」ができないことだってあるのではないかと思います。その人はその時、現在地点の自分自身を愛せるでしょうか?
ありのままの自分が「魂本来の理想的な私」という意味だと思うなら、その人は自分をまるごと愛せないと思います。
だって今現在の自分はそこに程遠い状態ですから。理想に程遠い自分は大切なものが欠けていて、完全ではないと感じるからです。
ありのままの自分が「今現在の駄目な自分」ということであるなら、その駄目に思える自分もありのまま愛することができます。
まるごと愛することができるのなら、その人はその愛によって完全となることができます。
駄目に思える自分は、一時的に魂の光線を見失っているだけです。
その光の一時的な不在は、光そのものを否定することにはなりません。お財布をちょっと家に忘れてきてしまったようなものです(笑)
ですから、情けなくて駄目な私も、その光と切り離されてはいないのだと信じることもできます。
魂の光線は、愛そのものと翻訳することができます。理想的な自分像だけを愛して、今現在の理想的でない自分を愛せないのなら、それは「愛そのもの」とは言えません。
そのように考えると、私の中でありのまま論争に決着が見えてきました。
魂本来のポジティブな私は、「ありのまま」ではなく「本来の私」と呼べばいい。
今現在理想に程遠い私も含め、今この場所で必死に生きている私を、ありのままの私と呼ぼう。そして、その私をありのまま愛してあげよう。
それが、自分自身を愛せずに長い長い間苦しんできた私の、私自身に向けた一つの回答となりました。あなたはどう思うでしょうか?
このままの私でいい
まだまだ魂本来の生き方ができていないと感じる方、迷路の中で彷徨っているような感覚でいる方も、安心していただきたいのです。
ひとつの大きなストーリーの中で、道に迷う段階にいるだけで、あなたが劣っているわけでも悪いわけでもありません。
やがてゴールにたどり着けるとわかっている迷路に、私もあなたもいるのです。視点を変えて、鳥となって飛び立ち、空からそれを眺めてみればわかります。それがヘリオセントリックの視点です。
いつの日か本来の私に達しなければいけない!このままではダメだ!と自分を叱咤するのではなく、いま理想に程遠い自分と戦わず、このままでいいのだと肯定し、愛することで、魂の光に近づくことができるのだと私は思います。
というか、それが唯一の道なのだと思います。魂の光は、愛と同義ですから。